昭和40年11月27日 朝の御理解



 信心に一番大切な事、それは信心辛抱と言われております。成程辛抱し抜くと云う事です。三代金光様も、神信心には辛抱する事が一番大切で御座いますと仰る。信心に一番大切なものは辛抱すると云う事が一番大切で、神信心には神信心に特にと云う事を感じる。 神信心には辛抱する事が一番大切で御座います。
 久留米の初代にも二代金光様四神様が、なあ石橋さん、信心辛抱さして頂いて物事成就せん事はないぞとみ教え下さったと云う事で御座います。信心辛抱さえしとれば物事成就せん事はないと。けれども私の方は何十年間と信心を続けておりますと、というだけのではいけん。四神様がおっしゃる信心辛抱とはどういう信心辛抱がお広前金光様、広前金光様三代金光様がおっしゃる。
 神信心には辛抱する事が一番大切で御座いますと仰る信心辛抱とはどう云う様な事か、そこん所をひとつ検討して、それが成程一番大切であると云う事を分からして貰うて、その様なおかげを頂いて行かねばならんと思うです。昨日現場の担当が麻生さんと文男さんで御座いました。文男先生です。それで丁度お昼にこちらにお届けに出て来とります時に、熊本から或婦人の方がお参りして来とりました。
 熊本から次々お参りが続いたんですけど、その人達に丁度文男さんが来合わせておる時でしたから、あちらで楽室に控えてからでした。あの人が成程よいお取次をさして頂くなあと思うて、私横から聞いとったんですけどもね、その或方なんです。その或その人非常にいい方なんですけども、時々主人とやり合う。主人がおとなしい方です。だから主人が何かひとつ抜けとるごとしてから。
 そげなこつばっかりしか、見えんと云う訳なんですね。大体はやっぱりあの組合、農業組合に、勤められる位ですから、そげん抜けた人では、勤まりませんですもんね。奥さんの目から見ると、何か一本釘が抜けとる。家の主人ねちいっつごたる風に見えるらしい。それで奥さんが、大体勝った方ですけども、そこんところを矢張り、一日何かモヤモヤする時があるとですね。
それをずうっと辛抱して溜とる。主人が勤めから帰ってみると途端に爆発する。主人にやられるらしいですけども、結局主人とは夫婦喧嘩になると云う話で御座いますけれどもね。そしたら文男さんがこう云う事を言ってるんですね。皆さんも御承知の様にあちらの家内は中々云うなら我が侭で育ってるです。これは文男さんが本当に乗りこなし切るだろうかと私も心配するくらいでした。
 初めの間は矢張り我が侭って云うて悪い意味合での我が侭ではないですけども、本当にこげなこつでよかじゃろかて思いよりましたけども、段々段々よい家内になって息、段々段々よいお母さんになって行くんですね。信心も段々しみじみとなって来るんです。私偉いと思いますね。あの人は黙ってそのやはり自分のペースに家内も引き込んで行ってしまいよる。しかもガタガタ言いよる訳ではない。
 黙ってある場合には、あちらの方迄自分が自分のペースを落としてからでも、一緒にこう教導して行きよるですね。それは私も気が付いていたんですけども、そのあすこんとこ去年の事か、今年の事か知りませんけれども、その段々おかげ頂いて行きよりますが。お父さん家にどうしても、冷蔵庫がひとつ欲しいとこう云う訳なんですね。まあだまあだお前やそげなだんかと言うとったけれども。
 中々欲しそうに、何回も言うもんですから、そんならお前が、何かひとつ修行せにゃでけんばいち、お前が使うとじゃけん、何か修行せにゃいけんばい。そんなら、どげな修行さして頂いたらいいですか。そうねお前がプリプリ腹かくけん、いっちょ腹かかん修行さして頂いたらよかねて、ま申しましたと言う訳なんです。その腹かく時に、お取次さして頂いたのですよ。
 それでその、所がこれが見事に当たりましたと言っておかげ話をしてるんです。それは矢張りですね、それが一年間続いたと云うですね。冷蔵庫買う為に一年間腹をたてんと云う事に決めたんですね。やっぱり腹を立てるらしいんですよね。お前腹立つならえらい儲けた、買うてやらんでよかけんでとそういう風に。所が私や腹かいとるとじゃないですよち。これを言わせるだけは素晴らしい。
 どんなに腹が立っとってもです、お前が腹かきゃ冷蔵庫はもうふいになって仕舞うんだから、俺金出さんでいいから儲るぞと云うけれども、いいえ私や腹かいとるとじゃないですよ、腹かいとるけれどもそう言う。どうでしょう、皆さんが腹が立っておる時に心がこう、ちじに砕けれる様にその現れておる時でもです、いいえ私の心は平静ですよ、私や腹立てとっとじゃないですよと相手に言わせたら、もう本当にそれは腹立てとらんとと、同じ様な事じゃないでしょうかね。
 どうですか、それはもうプリッとした向こう向いたぎりで、こっちは向こうでつでんしなかったのがですね、例えば腹は立てとっても、言わば私や腹立てとるとじゃないですよと言うもんですから、やっぱこっち向かん訳にはいかん。やっぱ向いてると、こういう訳なんですね。それが素晴らしいでしょうが。皆さん文男さんが教導も素晴らしいけれども、家内も矢張りおかげ欲しさであっても、腹かいとっても腹かいとらん風をするだけでも素晴らしいでしょうが。
 して一年間終っておる今日ですね、本当にそれは殆どおかげ頂いた。だから二年続けよ、三年続けよと云っても、もうそれは恐らく腹立てちゃ馬鹿らしかと云う、一年間の間にもういやと云う程感じたらしいです、よと言ってから話してるんです。矢張り辛抱が要るですね。ちょいと今日一日腹かく、そんなもんじゃいかんです。やっぱ辛抱が要るです。 昨日は、聞いとる人も、本当におかげ頂きたい方が幾らもある訳です。
 そんなら私も今日からお願いしてからおかげを頂かして頂く為に、ひとつほんなら家内にガミガミ、家内じゃありません、主人にガミガミ言わん様な辛抱さして頂こう。主人が申します、お前が椛目にお参りすると五日ぐらいは持てるもんね云うて、何時も主人が云うそうです。今度はいっちょ本気でひとつそこんところに取り組ませて頂きたいと、そうしてから申しとります。
 信心に辛抱と云う事は、神様の前の事だけではない。日常生活の上にもそれが必要であると云うこと。そういう例えばひとつの修行でもです、本気でさせて頂く様な心、そういう様な心でです、いわゆる神様の方への向こうての、信心辛抱もなされて行かなければならない。昨日、ある婦人の方がお参りして参りました。本当に貰い泣きするごたる難儀な話なんですよね。
 そうですよ、昔は三井郡でも一か二かと云われる位な分限者のお嬢さんに生まれた人ですもん。その人は、それが終戦後瞬く間に、財産を無くされた方なんです。それがもう本当に話を聞けば聞く程に、まあ術なかろうな昔が昔だけに、それで自分の門内にも矢張り昔女中さん、奥さんが女中だった。御主人がそこの男師じゃった。より下男だった。それでもうまあ、とやこう幾ら落ちぶれたと云うても、まあだその昔の下男なら昔の下男にでもちゃんと盆正月には務めさせて頂きよる時分はですね、
 それこそやっぱりお嬢様お嬢様であった。所が愈々自分の方がでけん様になったから、ある町内で難儀な問題が起こったからそれを相談に行った。所がそうりゃ貴方町の為だけん、町のもんが言うのがほんなこつですよと云ったごたる風で、全然自分の方にいわゆる味方してくれないと云う事なんです。町の人達も本当にやっぱり落ちぶれなさったから強引な事言うとるなと、その話を聞けば私もそう思う様な事柄なんです。
 本当に袖に涙のかかる時、人の心の奥ぞ知らるるであってですね。あの人こそは、自分方のあれだけ恩義を受けたつじゃけん、あの人こそ自分には都合ようしてくれるだろう思うとってくれるだろうと、思うておるのが裏切られた。本当に落ちぶれて初めて人の心の奥が分かったと言うて、言わば泣きよんなさるとです。そしたら神様から頂きます事がですね、いわゆる袖と云う字書いてご覧、袖という字はカタカナのネを書いて由と云う字が書いてあるでしょう。
 よしそれでね〇〇さん信心してあなた方がおかげを頂き、そこの婆しゃまが十何年、十四、五年前、此処で初めの頃しっかり参って見えよりました。そして椛目の先生がちゃんと十五年前に家の事言うちゃたち、こげんなると云う事は。けれども、日頃の信心の徳でですね、あちらこちらとあぁた方は、二た所から芽が出るごとなっとるよち。椛目の先生が言うちゃったと言われる訳ですね。
 だから家がこげんして落ちぶれたけれども、そのこちらの方と息子さん方は久留米の方に居られます。亡くなられましたけれども、孫さん達嫁さん達は久留米の方に居るんです。だからそこをと善導寺( ? )なんですけども、その芽が出るとこういう訳なんです。だからここだけは絶対外しちゃならんと、こういう所を、町内の方達が強引にそこを町の道にしてくれと云うて来よるわけですね。
 私が考えても、必要じゃないですもん。此処にも大きな横町がある。町の道はあるとですもん。たった一軒か二軒の為に、その町道にしてくれと云うて、強引に言ってる訳なんですね。町会議員まで使うて、それこそ、脅迫するごとしていよる訳です。それでそこんところを、本当に、そう言う様な意味合に於てから、そこから芽が出る様な、おかげを頂きたいならですね、
 あぁたがその袖に涙のかかる時、人の心の奥ぞ知られると云うごたる、嘆き悲しんでおるだけではおかげにならんと私、はぁこげな心じゃおかげ頂くめと、こげん悔やみまわっとる様な心じゃ、おかげ頂くまいと分かったらです。本気で神様に打ち向かうて、そして、はぁ今こそ神様の心の奥が分かった、と云う様な信心にならにゃいかん。人の心の奥が分かったっちゃつまらぬ。神様の心の奥が分かった。
 ですから、その袖という字に、こう由と云う字に下の方にちょと継ぎ足すと、神という字になりゃしませんか。由という字にこう書いて、そして下にちょっとこうちょっとこう加えれば神という字になるんだ。人が何というても神様には勝てませんよと私が。だから貴方が今の様に袖に涙のかかる時もう本当にあの男ばっかりは見損なったとか、世間が冷たいとか云っておる間はおかげにならんと私が。
 だから本気で、神様に折角のことですから、神様に打ち向かうておいで。先代からああして本当に教会の、その人がその人の教会かと言われるくらいにです。羽振りをきかせなさった時代もありゃ、そういうおかげも頂いて来た人なんです。だからそういう徳もあるのだから、袖と云う所まではあるのだから、これがまあちょっと伸ばしなさりゃ、神という字になる様なおかげになって来るから、元気な心で信心なさい。
 元気な心とはその事だと私は申しました。例えば、皆さんでもそうでしょう。銘々の家庭の上に於いても御造営なら御造営の事に於いても、こげなこっちゃおかげ頂かれまいと、思う事があるでしょうが、自分ながらはぁこげなこっちゃ、自分なおかげ頂ける筈がなかもんねと、云う様な事があるでしょうが。ですからそこんところをです、そこんところを、私はそこんところを踏ん切りをつける、それだけなんです。
 これは昨夜の御理解ですけども、元気な心とか生き生きした心とかと云うのは、もう是は神様に必ず交流する。神様は電気体の様なお方だとその話が昨日は、夕べの御理解に出てるんですね。成程神様は電気体の様な方だとね。いわゆるエレキなんですから、私共の心が生き生きして神様に打ち向かう時に、いわゆる電流が交流する様にする訳です。例えば、電線が破れておる所から漏電しておる漏電。
 例えば、電気が漏れておっても、そこに木や竹やら枯れたもんをどう持って行っても、ピリッともせんでしょうがね。もういわば電流が漏れとるとですよ。だから漏れとる所に、例えば枯れた木やら竹やら持って行った分じゃ、ピリッとも来んけれども、生木なら生木生竹なら生竹、いや自分の身体をもってしてご覧なさい。それこそビリビリ電気がこちらへ伝って来るでしょうが。
 神のエレキと、私共のいわゆる生き生きした心と云うのがです、通い会うのですよ。だからもう何十年信心しとります、と云う辛抱だけではいけんと。それにはその文男さんと、あすこの良江さんじゃないです、家内じゃないですけどもです、生き生きとして私はそれを腹かいちゃならんと云う信心がです、しかも一年なら一年でも続けられる。これに失敗してはならんと云う様なその云うなら心なんです。
 元気な心と云うのはです、こげな事じゃ、おかげは受けられんと分かっておるならです、こげな事じゃ、おかげは受けられんと言う所までは、まあだ袖なんです。そこにちょっとこう下のちょっと、こう棒をちょっと加えれば、神になる様にです、そのこげな事じゃおかげは受けられないと、云うそこに元気な心をです。それが元気な心である。それが生き々した心である。
 ですから暑かっても寒かっても、云うならば、暑さを感じんくらいに、寒さも感じんくらいな心を、元気な心と云うのです。あぁあ毎朝眠してこたえん、これは元気な心じゃないです。もう本当に寒か寒か、こげな寒か思い何時まで続けなんじゃろかと云う様な、例え朝参りがでけておってもそれは元気な心じゃないです。もうてんでぽっぽして来る、元気な心をもってすると。
 元気な心とはそういう心、生々した心とはそういう心。そういう心でですそういう心に一週間なら一週間なったからおかげ頂くのじゃないです。ここが辛抱です。そこが例えば自分のもんになるまで辛抱する。例え良江さんが一年間辛抱したら冷蔵庫買うて貰うた。冷蔵庫買うて貰うたからもう腹かいてもよいと云うのではなくてです、もう一年後冷蔵庫入手する時には、もう既に腹かく事の馬鹿らしさが身を持って体験しておる。
 いや腹をかかんと云うのは、こげん楽なもんであるかと云う様な、それが主人にも子供達にも、こげん影響するもんかと、体験が生まれて来る。そこまでが辛抱するんだ。一週間腹立てませんやったばってん、おかかげ頂き切らじゃったではいけん。成程信心辛抱が大事だと云う事が分かるでしょうが。信心辛抱さして頂くと云う、そういうその生き生きした心をもって、辛抱し抜かせて頂く。
 それが自分のものになる所が、辛抱し抜かせて頂いて初めて、おかげと云う形、本当のおかげという形になって現れて来るのです。それが信心辛抱の徳にも、勿論なって来る訳なんです。どうぞ一つ信心に一番大切な事は信心辛抱。信心辛抱さえしとりゃ、物事整わぬ事はないと云われる、信心辛抱とはです、そういう事。神信心には、辛抱する事が一番大切で御座いますと仰る、その信心辛抱とは、そういう辛抱。
それが自分のもんになってしまうだけの、私や辛抱であって、初めて神様を動かすと云うか、神様に交流する。そこから私はおかげが又交流して来る、流れて来る。こう云う風に頂いて参ります時に、初めて信心辛抱と云う事は、こう云う事であり、生き生きした心、元気な心で信心せよと仰る事は、こういう心をもって信心を続ける事であり、それがいよいよ自分のものに成って行く、そこに私は意義があるとこう思います。
 ですから、私はもう何日間辛抱しとるといった様な、桜の花の様な信心にです、どんなにパアッと信心がでけても、パアッと散って仕舞う様な、辛抱のなさの信心ではおかげを受けられんことが分かります。桜の花の信心より梅の花の信心をせよと、梅の花の信心は苦労しておるから、寒い間に苦労をして居るから、長う散らんとこう仰る。梅の花の信心をせよと仰る梅の花の信心が、そういう意味で大事であると云う事が分かりますですね。   どうぞ。